わぴ記2

アニメ、映画、アイドルマスターのこと。

原作未読の高畑勲のファンがネトフリでアニメ赤毛のアン全部見た感想。

 

赤毛のアンと聞いて、よっしゃ見よう!とすぐに食指が動く人も
なかなか少ないのではないだろうか。
それはすごくよくわかる。
この2019年に大人が今さら見るものではなさそうな感じはある。
事実、私も高畑作品を片っ端から見ようと思わなければ一生見ることはなかったと思う。 

けれど、全話見終わった今、本当に見てよかったと思う。
正直、見始めた時は流し見していた。
しかし、見ていくとこれはすごいアニメなんじゃないかと、
気づけばモニタの前にちゃんと座って見るようになっていた。

 

この赤毛のアンという話は、取り立てて大きな事件が起きるわけではない。
脚本、演出に高畑勲
場面設計に宮崎駿(1クールで撤退)
キャラクターデザインと作画監督近藤喜文という
スタジオジブリ作品で有名なそうそうたる座組みだが、
主に宮崎駿の作品によくあるようなファンタジー展開やアクションは一切起きない。

まず、初回第1話は、移動で終わる。
馬車に乗って、アンがこれから養父になるマシュウにずっと一方的にしゃべりたてるだけで終わる。
とりあえず、この主人公、アン・シャーリーという少女は
もう本当にめっっっちゃくちゃによく喋る子供なのである。
これは物語が後半に差し掛かるまではずっとこの調子なので、正直、アンのべしゃりに耐えられない人は辛いかもしれない。

けれど、このアンの『超夢見がちで感受性に全振りのおしゃべりバード』っぷりは、
すべて伏線というか予兆で、
アンが今後、どのような女性に成長していくかということとかなり密接に関係してくる。
『夢見がち』は『創造力』になり、そして学びに対しての原動力になっていく。

アンの周りの人々は、孤児院から来たばかりのアンに対し、
「こんな子、見たことないよ」と言うのだが、視聴者も多分みんなそう思うだろう。
だが、周りの人とのコミュニケーションと教養の修得を経て、
物語の進行とともに、アンが立派な大人になっていく様子に、
周りの人々を通して、私たち視聴者も「あのアンが・・・!?」と感動してしまう。

 

第一に、このお話は、アンという少女の成長ドキュメンタリーである。
アンの成長に関しては、もちろん内面の成長も丁寧に描かれているのだが、外見も顕著に成長する。
初期のアンは、やせっぽちで手足も細く、
目の窪みが深く、頰もこけ、失礼ながらかなりガイコツっぽい。
しかも当時は良い印象ではなかった赤毛ということもあり、
本人も外見にとてもコンプレックスを抱いている。
実際、作中でも親友のダイアナらと比べるとかなり痩せている。
さらに養母のマリラの趣味で超質素な服ばかり着ているため、
周りの女の子たちから比べると確かに少し異様に見える。
11歳、12歳くらいの女の子からしたら、他と違うことはとても気になるし、
なんとか良くならないものかと誰しもが四苦八苦するものだと思う。
そういった少女時代のいじらしさが描かれつつ、
アンは少しずつ大人になり、気づいた時には、背も伸び、美しい娘さんになっている。
後半のアンを見た後、第1話のアンを見返すと
かなりの変貌を遂げているなと思うのだが、
アニメを順番に見ていくと、流れの中では俯瞰出来なくてあまり気づけない。
リアル子育てもこんな感じなのかもしれない。
渦中にいるとわからないけど、
ちょっと遠くから見てみると『えっ!?なんかでかくない!?』みたいな。

 

先日、高畑勲展の赤毛のアンのブースに行ったとき、
成長したら知的な美人になるような顔というキャラ設定資料が最初からあり、
さらに近藤喜文は成長していくキャラを意識して描いたとのことなので
高畑勲近藤喜文の計画通りだなと思った。

個人的にこの作品では、高畑勲よりも近藤喜文の方が存在感があると思っている。
高畑勲はむしろ、他の高畑作品と比べるとやる気なさそうというかテレビアニメに疲弊してそう(笑)
もちろん演出の面白さは見えるのだけど、控えめな印象。
かぐや姫おもひでぽろぽろ火垂るの墓などに見られるようなキレてる高畑勲成分は少ない気がする。
この後の人間を描く作品への過渡期感がある。


話を戻し、
近藤喜文といえば、耳をすませばの監督であり、
となりのトトロ火垂るの墓の同時期の制作の際に、
宮崎駿高畑勲が取り合いをしたほどの超すご腕クリエーターで、
本作では、キャラデザと作画監督をしている。

自分が、この赤毛のアンで一番面白いなーと思うキャラが、アンの養母のマリラ。
初見、私は赤毛のアンの知識ゼロだったので、
初登場時のマリラの物言いや見た目から察して、
「この女性がアンをいびっていじめるけど、最終的には認める的な流れなんだろうな」
というこういった定型にハマったお話を想像していたのだが、違った。

そもそもこういう発想に至ったのも、
ハイジはロッテンマイヤーさんにいびられるし、
母を訪ねて三千里のマルコやフランダースの犬のネロもなかなか可哀想な目に遭うし、
こういった世界名作劇場の系譜のアニメは、
かわいそうなシーンがあるんだろうなと思ってたからだ。
その困難と戦ったり、立ち向かったりするのが好まれるのだと。

まあ、この赤毛のアンにも困難はでてくるのだが、理不尽ではない。
大抵、そりゃそんなことしたらそうなるよ!ってことばかりだ。
アンの生い立ちこそ、確かに不憫なのだが、
引き取られてからのアンの身に起こる事件は、むしろアンが暴走して自分で引き起こすことが多い。

 

アンの養母となるマリラという女性は、リアリストだし、顔つきや口調が厳しくて、
いかにもビシバシとアンをしごいたりいびったりしそうなものなのに、
アンに対して基本親バカで、めっちゃ褒めるしかなり甘やかす。
無表情(完全にそんなセリフを言わなそうな顔)で
『あの子は本当に良い子だよ』などとアンを褒めちぎったりする。
普通、そういうセリフを言うときは、よくあるアニメのツンデレキャラならば、
照れた表現なり、ちょっとバツが悪そうな表情をしそうなものだが、
このマリラというキャラは滅多に喜怒哀楽を表情に出さない。
なのでマリラが表情を崩したときは、本当に嬉しそうで悲しそうに見える。

高畑勲近藤喜文の共作は、赤毛のアンの他には、おもひでぽろぽろ火垂るの墓
この後発の2作品を見てから、赤毛のアンのキャラクターデザインを考えると、
やはり、この作品でも、キャラクターというよりは人間を描いているのだと思う。

厳格そうな見た目の人が厳格な人間とは限らないし、
人間は誰しもが感情を素直に顔や身体に出せる訳ではない。
涙を流すことだけが悲しみや喪失の表現方法ではない。
記号や型、セオリーにはめることの出来ない人間の複雑な言動や所作を描いていると感じる。

アン役の声優さんは山田栄子さんという方で、この作品がデビュー作らしいのだが、
最終候補では島本須美さんも残っていて、
他スタッフ(宮崎駿とか笑)は島本さんを強く推してたらしいが、高畑勲は山田さんをキャストした。
これもやはりキャラクター化を避けた結果ではないかと思う。

アニメーションがまだまだ子どものものだったであろう時代に、
このような実写映画のような表現があったことがとても面白いと思った。
児童のための作品である前に、文学であるこの原作をかなり尊重した作りだと思う。(原作読んでないけど・・・)

 

また、これはアニメというか、そもそもの原作の設定の話だが、
アンの養母と養父であるマリラとマシュウが夫婦ではなく、
未婚の兄妹であるというのも面白かった。
時代設定は1890年くらいらしいのだが、
アンだけでなく、同時にアンの近所の家に引き取られた孤児もいたり、
便宜上、さっきから養母、養父という呼び方をしているが、
実際、アンは作中で正式な養子縁組はされていなかったり、
その頃から多様な家族の形態はあったのだろうと思う。

この世界の片隅に」のラストでの『どこにでも宿る愛』という言葉を思い出した。
血の繋がりがあってもなくても、父と母と子という形じゃなくても、
一緒にいても離れていても、
このアンとマリラとマシュウにも確かに宿ったということだ。

 

私は25歳になっても家族に対していまだに素直になれないのですが、
魔が差して、実家に電話してもいいかなと思ったぐらい良い作品でした。

 

おすすめ回
第9話『おごそかな誓い』
第27話『マシュウとふくらんだ袖』
第28話『クリスマスのコンサート』
第34話『ダイアナとクィーン組の仲間』